思考の足あと

何を考え、感じていたのか。

ラブソング

「良かったの?逃げ出してきちゃって。」君は言う。バンの助手席に座った君は、グローブボックスの中をまさぐる手を止めて、じっとこちらを見ていた。僕は返答を考えるでもなく、一呼吸した。実を言うと、僕はいま結構ナイーブだった。目の前を中学生らしき4人グループが横切って行った。何やら楽しそうな話をしている。むこうはこちらに目もくれず、昔流行った芸人のモノマネをしていた。フロントウィンドウを隔てたこちら側には、その様子だけが見て取れる。

「いいよ、君がいれば。」少し間を置いて出てきたのは、小説の登場人物のような臭いセリフ。これが深夜のラブレターなら、朝を待たずに破り捨ててしまうだろう。

君は苦笑して、またグローブボックスを漁り出す。照れた時に目を逸らすのは彼女の癖だ。日常生活で誰も気に留めないような小さな癖を知っていることが嬉しく思えた。彼女を彼女として成り立たせるかたちに触れられた気がするから。そんな彼女が愛おしい。今にも抱きしめてしまいたいが、生憎僕の右足はしっかりとブレーキペダルを踏んでいて、こいつを離すことは出来なかった。

「私だけいても、生きていけないよ」今度はこちらを見ずに、そう続けた。

その通りだ。このふたりの狭い世界では、閉じていては生きていけない。そのために僕たちは形も、誰が動かしているのかさえ知らない大きな社会という機構に組み込まれる必要があった。

「もちろんそうだけど、君がいればなんとかなるよ。」本心だよ。

人は他者からの承認の揺らぎの中でなんとか形を保って生きているんだと思う。僕はクラスでいじめられた事があった。その中で、間違いなく誰からも拒絶されていた。というより、認識されていなかったというのが正しい。誰もが僕に触れようとしなかった。そこに居場所はなかった。暗澹たる気持ちで、ただ消えてしまいたいと、そう願った過去があったのだ。あの経験を踏まえて、承認の重要性を知った。誰かから認めてもらえなければ、そこにいる価値は無い。それは最低限僕と同じ動きをするロボットで十分だ。会話もなく、黙々と作業をこなすだけでいいのだから。

だから、先ほどの言葉には、こう繋げる。

君が僕を認めてくれるなら、それだけで僕は生きていけるよ。

僕がそれを口にしようとした直前、「あった!保険証!」

「なんだ〜!やっぱあるんじゃん!これ電話すればいいのかな?この保険って対物無制限なのかな〜」

ずっと探していた保険証が出てきて、無邪気にはしゃぐ彼女。そんな彼女がとても愛おしかった。「車の修理の場合はどこだ〜?」ページをパラパラとまくる君。目次を見ればいいのに。君を見ていたら、僕の感傷はどこかへ飛んでいってしまったみたいだった。

僕は笑いだす。後ろからクラクションが聞こえた。信号はとっくに青を示していた。ハザードでごめんねを送りながら、ブレーキペダルから足を下ろし、アクセルペダルへと踏み換える。派手に凹んだ車体を軋ませて、僕らの車はよろよろと走り出した。