思考の足あと

何を考え、感じていたのか。

そういう人間

 

この新鮮な感情を文章にしたいので書きます

 

愚痴が多いよねと言われた。

 

〈考えたこと1〉

自分に対する批判を聞いた時、何となく自分の神聖な領域を侵されたと感じるのかもしれない。

私は自身の欠点に気付いてるし改善する努力もしている、もしくは良かれと思ってしているのに、それを批判されるのがものすごく嫌なのだと思う。少なくとも僕はなるべく良くありたいと願っているのに、自分の認知している領域にさえ文句がつくことは自身の人格や人生の在り方そのものを間接的に否定されているような気がするからだ。

自分が普段から気をつけている訳ではないが、僕は他人の考え方について別に否定とかはしない、と思っている。他人に興味がないという見方も出来ると思うが、他人に対してもそう言った不可侵の領域を無意識のうちに知覚しているからかもしれない。別に大学の後輩から何度同じことを聞かれても感情はほとんど動かない。

 

〈考えたこと2〉

じゃあ一方でなんで愚痴が多いのかということも考えた。

理由は3つあると思っている。

1つは僕が自分自身を信用していないことだと思う。例えばシステムとかプロジェクトの進め方とか何でもいいですが、自分を信用してないのでシステムにフェイルセーフ的な考え方を求める。でもこれって日常の中ではあまり行き届いてなくて、人の注意や親切心ありきの設計は多い。そう言ったものに対して、なんで!という不満が出るのだろう。

2つめはシステムに対する批判とそれを受け入れられるかどうかは分けて考えるべきだという考え方があるからだと思う。例えば納期が長いとクレームが入ったとする。必要な工程を考えれば外部の人でもこの納期が仕方ないものであることは理解できるとする。このクレームは不要なものなのだろうか。「少し考えれば分かることだ、不要だ」という考え方があるかもしれない。しかし私は異論を唱えたい。なぜならこのクレームからは短納期のニーズが存在することがわかるからだ。とにかくそういうニーズがある。今は不可能かもしれない。再検討するかどうかは受け手が決めればいい。ただ、これは検討の最高の材料だと思う。だから僕は批判はする。それを受け入れたり、反論するかは自由だし、仮に受け入れられなくとも自分の批判に意味があると思っている。

3つめはそれが面白いと思ってる節があること。

僕は愚痴ってみんな思ってるけど言わないこと=共通の話題だと思っていて、これって話したら盛り上がるんじゃないかと思って口にしていたけど、もしかしたら周りはただ合わせてるだけかもしれないなと思えてきた。

大事なのは人の行動に対する愚痴はあんまり言わないこと、言っても目上の人(権力の強いものへの生意気は寛容される部分があるので。)

 

〈でもさ〉

結局、愚痴だけ聞かされても面白くないよね。

僕もそう思うもん。

こんな文章を書いてる時点でお察し