タイトルの通り。現地にも行けなかったし、リアルタイムでも追えなかったけどニコニコのタイムシフト見たよ。
結論から言うと、俺は今までVtuberを知った気になっていてなにも知らなかったということを思い知らされたのだった。
俺は正直にじさんじのライブの良さが分からなかった。誤解を恐れずにいうなら、半分馬鹿にしてさえいた。なぜかと言うと、コンテンツとしての完成度が低すぎると思っていたからだ。今まで直接ライブを真面目に見たわけではないので、大いに偏見は入っていると思う。しかし、そう感じる理由があった。
まず、歌のレベルが低いこと。
そもそもにじさんじの面々は歌手としてにじさんじに所属しているわけではない。中には「歌うま」と呼称される歌唱力の高い人たちもいるが、それも一部に限られた話だ。全体で見たときの歌唱力は、カラオケレベルの域を出ないだろう。そしてリアルアイドルのようにオリジナル曲という訳でもなく、歌う曲はカバーが大半である。
歌唱力も無いオリジナリティも無いとなると、じゃあプロの歌手のライブに行けば良いじゃんという話で、何のために歌を聞きにいってるのか分からないというのが正直な意見だ。
もう一つとして、にじさんじという会社の技術基盤がまだ整ってないように感じていた。始めの頃の3Dモデルのトラッキングはガバガバだし、モデルは貰い物だし、眼球は動かないしで酷い有様だった。今ではだいぶマシになったとはいえ、それでもまだ甘さが目立つ。高いところは望まない。しかし最低限のラインとして破綻はしないで欲しい。それこそライブやイベントなど、お客さんに金を払って来てもらっている場ではなおさらだ。幸いにじさんじのライバーはキャラ設定適当だし、視聴者もライバーにロールプレイを求めていないだろうからまだ良いが、はっきり言うと手足が異次元に飛んだりするのはあり得ない。世界観ぶち壊しも良いところだ。
結局そんなんで歌下手、見た目も雑なら、一体なにを見に行くのだ?という偏見まみれの感想を持っていた。たしかにKANA-DEROはワンマンであそこまで人を集められるというところに感嘆したし、その事が単純に嬉しかったが、パフォーマンスについては大したことないだろうと高を括っていた。
ただ、ここで勘違いしないで欲しいのは俺はVtuber、特ににじさんじが好きだということだ。普段の配信や企画などはすごく面白いとおもうし、俺も追っている。歌ってみたも好きだし3Dお披露目放送だって好きだ。でも、わざわざ高い金を出してライブに行く意味は見出せない。そういうスタンスを取っていた。
しかし、ここまで書き連ねた俺の偏見というのは、VIRTUAL to LIVE でぶち壊されることになる。
きっかけは友達からタイムシフト視聴を勧められたことだ。ライブがあったのは知っていたし、みんな配信でも言及していたので頑張ってほしいという漠然とした気持ちは持っていたが、別に自分は金を払って見る気はなかった。しかし友達に強く勧められ、タイムシフトのチケット代である4500円も出してもらい、俺は無料でライブを見ることになったのだった。
セトリや詳しい流れはレポ記事などを検索すれば出てくると思うし、まさかこの文章を読んでいる人がライブを見ていなかったり、記事を見ていないわけがないと思うのでここでは割愛する。
そしてライブが始まるのだが、正直なところ第一部までは大方予想通りだった。演出や会場の盛り上がりは凄かったが、想定の範囲内だ。
(まだ記事として完成していない)
俺はそこで、ひとりひとりの人間が夢を叶えていく姿を見た。デビューして1年も経っていない人達が、今までVtuberを見る側だった人達が、両国でライブをする。メジャーデビューする。それは正しくシンデレラストーリーだった。それはきっと努力の結果であったり奇跡の連続であったり、目まぐるしい日々の想いの積み重ねが、彼女らをそこへと導いたのだと思う。
そして思いが紡がれていく瞬間も見た。
力一のメビウスコールの先にアズマを、ロアのシークレットベースの先に久遠を幻視した。
そこで俺は悟った。
このコンテンツは文脈の中で存在する。確かに、先に挙げた点は完全には埋められていないと感じた。でも重要なのはそこじゃなくて、本当に大切なのはそれを埋めようとする姿勢だったのだ。
別に歌が下手だっていいんだ。普段配信でいろんなことをやっていて、ライブが決まって喜ぶ姿が見られて、練習で腰を痛めてベッドから出られなくなって、ライブに緊張して弱音を吐いて。Vはそういう等身大のストーリーを全てひっくるめたコンテンツだったのだ。だから俺たちは、初期と比べて上手くなったシャープネスで驚いたり、パロ元である命に嫌われているで笑える。初めてのギバとこオフコラボに喜べるし、樋口楓のランティスでのメジャーデビューに泣けるんじゃないだろうか。これらは全てそのライバーの人となりや普段の思いを知らなければわからないことだ。ただ投稿される歌ってみたを聴いたり、イベントに参加するだけのコンテンツじゃなく、普段の活動からその人をどれだけ追っていてるか。そういうストーリー性を、このコンテンツは孕んでいる。
月ノ美兎は最後にこう言った。「また配信でお会いしましょう。」そうなんだ、リアルアイドルと違って、Vはライブが終わっても配信でまた会える。12時を過ぎても魔法は解けない。これこそが文脈でありVの強みだ。配信の延長線にライブがある。ストーリーの中にライブがある。ライブと普段の配信は何事も無く地続きだった。一切の解釈の飛躍のない、ただの平坦な道で繋がっていたんだ。だからライブは劇場版でもOVAでもなくて、ただの日常でちょっと作画の良い回と同じ。いつもとは違う一面が見られる、そんな素敵な神回だったのだ。
俺は全てを勘違いしていた。Vというコンテンツも、ライブの位置付けも。Vを何も知らない初めての人が見れば、確かに以前の俺と同じ感想を抱いたかもしれない。でも俺は知っていた。初めから追っていたんだった。そんなことも忘れて、表面的な評価基準に捉われていた俺はなんて愚かだったのだろう。
クソでか感情を持て余した俺は、その日、もう何もできなかった。今はこうしてこの感情を、熱の冷めやらぬうちに形に残したいと思い、記事を書いている。ここで、まだライブを見たことのない人に対して、恥を晒しながらも俺から言える言葉があるとするなら、「ライブは見れる時に見ろ、推しは推せる時に推せ」。
追記
普段見ている月ノ美兎や樋口楓なんかは場慣れしまくっていて、「俺はこんな凄い人の配信を見てたの?」となった。委員長とでろーんすげ〜