思考の足あと

何を考え、感じていたのか。

理解を不連続にするべきではない

自分は勝手に自分のことを軽度のADHDだと思っていて、その理由はまあ夏休みの宿題を最後まで残すだとかカバンの中からたまにくしゃくしゃのプリントが見つかるだとかそんなくだらないものなんだけど、かといって人付き合いは出来てるつもりだし周りの空気をぶち壊したりはしてないはずだ。

でもよくよく考えてみれば、その他コミュニケーション能力以外は典型的な気がしていて(といっても種類は多岐にわたるので一概に典型といってもどんなものかは言えないらしいが)とりあえず歪んだ完璧主義でプライドが高いところだとか、かといって自分が努力しているわけでないところとか、ほんとうに自分のこう言う部分が嫌いだなっていうところは何かわからないけれど酷く典型的な気がしてならない。俺の中で固まった性格の悪いやつだとか、不出来なやつの印象は自分を逆投射して出来た偶像かもしれない。とにかくこの自分がADHDでも自閉症でもなんでもいいが、自らの価値観におけるマイナスの集合に属しているのが気に食わんし、大嫌いなんだよ。こうやって普段ちゃらけてるくせに自己嫌悪に落ちるのも躁鬱っぽいし、ああ、なんて欠陥。おれは満遍なくすこしずつ悪いんだ。おれがどこかにもう少し振り切れていたのなら、この症状にちゃんと名前がついて–劣等でもなんでもいい−そういうものだとして扱われたのだろうけど、今の俺は出来の悪い健常者だ。大多数一般の他者と同じ土俵で戦わせられて、負けたらお前は出来損ないだなって投げ捨てられることを余儀無くされる。劣等に名前がついて理解が進むのはいいことだが、それの認定を不連続にすべきではない。だって実際には“なりきれない”人たちがごまんといる(はずだ)。ほんとうのそういう人々がどう思おうが知らない。俺たち“なりそこない”を羨ましがろうが、おれはそいつらを下だとは思わない。人生イージーモードの印籠を貰って暮らせばいい。俺はウェルター級でボコボコにされて、どう頑張ってもライト級には降りれないらしい。

別に現状の制度を問題視してるわけじゃない。知ってるんだよ。基準を設けなければ福祉は出来ない。当たり前だ。だから必ず俺みたいなのが出る。あぶれた人間はどうしようもない。これは全ての不連続的性質を含むものに言える。理解は連続的であるべきだ。社会的仕組みがどれだけ不連続でも、僕らの中に不連続性を介入させてはいけない。