思考の足あと

何を考え、感じていたのか。

おれは最近ずっと、ひとつのコンテンツにはまり続ける人(それしかやらない人)のことを馬鹿だと思っていた。

だって、そうだ。ふつうひとつのことしかやらなければ視野も狭くなるし、新しいことを取り入れようとする姿勢が無い時点で自分の娯楽に対する改善策が提案されていない。これでは一切の向上は見込めないし、これは娯楽以外の他のことにも適用できると思う。

なによりひとつに注ぐにはコンテンツの情報量に対する自分のプレイ時間が多すぎる。例えばソシャゲにはまっているひとは、イベントが開催されてもすぐクリアしてしまうし、次のイベントや更新までの間が暇になってしまう。

そうやって空いた時間があるにも関わらず、そのコンテンツに対して批評的立場を取ることもせずに、信者として崇め続けるのは思考停止に他ならない。

 

…でもその考えは、所詮自分の尺度でしかなかった。最近は本当に忙しくて、まあ1日のうち14時間拘束とかもザラになっている。すると、自由な時間も、精神的余裕もなくなる。そうなれば趣味としてやるゲームも結構絞られてきて、今ではソシャゲ1つ回してるだけだ。

1つやってるだけなのに、イベントは追いきれないし、デイリー回すだけでも結構きつかったりする。

結局向上心や考え続けることというのは、精神的余裕も時間もじゅうぶんに与えられた状態で、その先にあるものなのだ。なんとなくマズローの欲求階層構造が思い出されるが、そのアナロジーで、とりあえず遊ぶ(≒精神的疲れを癒す)が達成されない以上、その先は望めない。望む余裕がないと言った方が正しいか。

どのみち他所は他所なので、ひとに口出しするべき類のものではないが、そういう今までの考え方というのは、自身の境遇によって強固に塗り固められた価値観や想像力の足りなさが支柱となっている場合が多いのかもしれない。

論理的に導き出した答えで、それが普遍のものだと信じていても、前提条件や定式時点で崩れているかもしれない。やはり正しさとは、他者から承認されるべきものか。

 

○○沼なんて、ほんとにアホのたしなみくらいに思ってたけど、まさに沼とはこの思考のくだらなさそのものを指してるのか。